内田樹

安倍晋三政権は7月1日の閣議決定によって歴代政権が維持してきた「集団的自衛権は行使しない」という方針を転換し、海外派兵への道を開きました。日本の平和主義を放棄するという歴史的決断を首相個人の私的諮問機関からの答申を受けて、自公両党の与党協議による調停だけで下したのです。国のかたちの根幹にかかわる政策の変更に立法府がまったく関与していない、つまり国民の意思が徴されないという異常な事態にもかかわらず、国民の側からはつよい拒否反応は見られません。 なぜ、日本の民主制はこれほど脆いのか、なぜ戦後70年にわたった日本の平和と繁栄を下支えしてきた憲法を人々はこれほど侮り、憎むのか。私たちの国の民主制と平和憲法はこれほどまでに弱いものであった。わずか二回の選挙で連立与党が立法府の機能を事実上停止させ、行政府が決定した事項を「諮問」するだけの装置に変えてしまった。 立法府が機能不全に陥り、行政府が立法府の機能を代行する状態のことを「独裁」と言います。日本はいま民主制から独裁制に移行しつつある。有権者はそれをぼんやり見ている。ぼんやり見ているどころか、それを「好ましいことだ」と思っている人間が国民の半数近くに上っている。 独裁によって受益する見込みがある人たちがこれを歓迎することは理解できます。でも、独裁によって受益する可能性がまったく見込めない有権者たちがそれでもなお独裁を歓迎するのはどのような根拠によるのか。このまま進めば、いずれどこかの国の歴史の教科書に「このとき日本の有権者は国民の基本的人権を制約し、70年守ってきた平和主義を放棄しようとする政治勢力の独裁をなすところもなく傍観し、それどころか半数近くの国民はそれを歓迎したのである」と書かれることになるかもしれない。でも、そのような切迫した危機感が日本国民にはまだ見ることができません。たぶんあまりにも長きにわたって平和と繁栄に慣れ切ってしまったためでしょう。「たいしたことは起こるはずがない」と高をくくっているのです。どうしてこれほど危機感が希薄なのか。